死を思え

 

Memento Mori」

唐突に男の発した言葉に、男に背を向けてごそごそと服を着込んでいた痩身の少年は振り返った。

「なんだぁ?」

身長にまだ肉の追いつかないその肋の浮いた薄い胸を眺め、まだ年若い、30に成るかならずかの男は笑みを滲ませた。

「メメント・モリ。ラテン語で自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな、という意味の警句だよ」

未だ情事の名残が色濃い寝台の上で教師じみて語る男に、すでにその退廃の巣から抜け出していたスクアーロは唇を引き歪めた。

それはこんな状況で暗殺を生業とする男の口から聞くと、随分と皮肉な響きを帯びる。古来から最も暗殺が盛んなのは、寝台の上。閨房と決まっている。

「喧嘩売ってんならいつでも買うぜぇ」

自分が男の命を狙っていることはお互い周知の事実だが、スクアーロが男を狙うのは別に憎んでいるからでもその死に益があるからでもない。ただどうしようもなく闘う男を敗北させたいからだ。死はその結果に過ぎず、戦い、勝つことに意義がある。

だから今の言葉は、スクアーロに対する最低の侮辱だった。

スクアーロが男と、血の繋がった実の叔父と寝台を共にするのは、そんなことが理由ではない。ただ、テュールという男が欲しかったからだ。

思いっきり不機嫌になった少年に、テュールは柔らかな強者特有の余裕をもって否定する。

「いいや。ただの訓辞さ。日常のどんなところにも死は潜んでいるからね。それにお前はいつも向こう見ずな戦い方をする。年寄りの老婆心だと思ってくれていい」

どこが年寄りだと抗議の声を上げたくなるほど若々しい肉体と無尽蔵の体力をもつ化物じみたいつだとて柔らかな物腰の、だがちろちろと戦意を振りまく師をスクアーロは睨む。

「ゔお゙お゙い。俺が覚悟してないとでも思ってやがるのかぁ?」

この師は時々訳の分からないことに、スクアーロが当に分かり切っていることを諭すように語る。以前馬鹿にしているのかと食って掛かった時に、お前は知っていても理解はしていないからだよと剣帝たる男がその端正な顔を悲哀に染めたのをよく覚えている。

「思ってもいないよ、スクアーロ。ただね、お前の死がもたらすものを、忘れてはいけない」

まっすぐにスクアーロを貫く同じ銀灰の瞳は未熟な少年の、きっと経験を積んでなおわからぬものによって深く沈んでいる。

「だから決して、己を蔑ろにしないことだ」

男はそう締めくくるとにっこりと笑って、困惑を浮かべる傲慢な子供を、おいでおいでと手招きした。

ジーンズを履いただけの少年は、テュ−ルから見て心許ない程の白さの足先を絨毯の深い毛足に埋めながらおとなしく抜け出した寝台へと戻ってきた。マットに乗り上がった発展途上の体を己を包むリネンに引きずり込みながら、男は今度は悪戯じみた響きで言葉を綴る。

「それに、メメント・モリと言うのは最古は今を楽しめという意味で使われていたんだ。明日死ぬのだから、とね。だから私は楽しんでいるだろう?いつか死ぬ日を覚悟しているから、今を後悔しないように」

未だあちこちに幼さを残す少年を抱き寄せて愉しげに笑う叔父。確かに受け入れたのは自分だが、スクアーロに手を伸ばしたのは男の方だった。

同じ色の瞳、子供よりも白の強い銀糸。

吊り上がった目尻ときつい顔立ちの目立つスクアーロと違ってテュールは随分と柔和な顔をしていたが、それでも血の繋がりが在るとは一目でわかるほどに二人はよく似ていた。

明確な血の繋がりのある相手に躊躇いもなく手を出して罪悪も背徳も持たないイかれた部分も、似ていると言えるかも知れない。そして、その相手を手に掛ける事を、何よりも至上としている点においても。

「もうしねぇぞぉ」

薄っぺらな胸から腰までを撫なぞる節くれ立って硬い大きな手に、スクアーロは嫌そうに体をよじった。

「私もそんな元気はないさ。散々搾り取られてしまったからね」

「嫌みかよ、そりゃあ」

年には勝てないと笑う男より先に根を上げた、そおいう御年頃のはずの少年が顔をしかめた事によって出来た眉間の皺にキスを落として、緩く、だが逃がさないようにその身体を拘束した男は深紅の虹彩を持つ子供を思い浮かべ暗澹とする。

スクアーロはその死を哀しむ者がいると言うことを理解しなければならない。その与える影響を、誰かの心に生まれる憎しみを、欠落を、絶望を、憤りを。連鎖する破壊を。

だが、きっとスクアーロは理解してさえ、その傲慢な意志を貫くためならば欠損も、死さえも躊躇いはしないだろうことがテュールにはわかっていた。

 

だから剣帝は哀れむ。

いずれはこの傲慢な少年の忠誠を受けるであろう、偉大なる男の子息を。

哀れな幼子。

君の愛したものはなんと傲慢で残酷なのだろう。

君は君故にこの子を失っていくのを見続けなければならない。

それをとめる手立てなどはありはしない。この子は絶対の意志でもって、己の意志を貫いて、我が身を犠牲にして君を守るだろう。

きっと私よりも君は不幸だ。

私は君よりも幸福だ。

なぜなら私はこの子の傷つき何かを失っていく様を見なくて済むから。

私が見るとした、そう。この子の死だけ。

私がこの子を殺すか、私がこの子に殺されるか。

私を殺すのはこの子だけ。

この子にしか負けるつもりはない。

私にもたらされる死はこの子によるものなのだから、それはなんと幸せなのだろう。

 

Memento Mori

死を思え。

 

いつだとて思っている。待ちこがれている。

この子と力の限り、命の限り、全てを持って闘う日を。

この子を殺すか、殺される日を。

この子か、私かの、何よりも誰よりも幸福な死に様を。

瞼を閉じ、脳裏に描くだけでこんなにも幸せになれる。

私を見下ろす勝者の姿と、捧げられる鎮魂歌。

私が見下ろす敗者の姿と、捧げる鎮魂歌を。

 

どこまでも傲慢な自己を持った愛しい者を抱きしめて、剣帝は今は訪れぬ日を夢見て瞼を閉じた。